日清講和記念館~下関・春帆楼(しゅんぱんろう)~

日清講和記念館からみた関門海峡(下関) 安徳天皇と祖母時子の入水像

 

1894年7月、外務大臣陸奥宗光が関与した2通の電報が相次いだ。1通は「今は断然たる処置を施すの必要あり、何等の口実を使用するも差支えなし、実際の運動を始めむべし」という陸奥宗光が朝鮮公使大鳥圭介(幕末の大坂の適塾出身)に1894年7月12日送ったものである。ここでいう実際の運動を始めむべしとは日清戦争への行動を意味する。もう1通は「本使は明日にして新条約に調印すべきことを得べし」というロンドンにいる青木周蔵駐英大使から陸奥宗光に1894年7月14日送られてきたものである。ここでいう新条約とは「日英通商航海条約」のことである。すなわち幕末1858年井伊直弼による日米修好通商条約における不平等条項のうちの領事裁判権撤廃を勝ち得た条約のことである。

年表風に整理すると、日英通商航海条約にて領事裁判権撤廃は1894年7月14日⇒日清戦争緒戦たる豊島沖海戦(朝鮮半島中西部)勃発は1894年7月25日⇒日清戦争の宣戦詔書による日清戦争宣戦布告は1894年8月1日、ということになる。

2通の電文を伝える陸奥宗光の「蹇々録」 下関条約の条文史料

日本は、この戦争で圧倒的勝利を得て眠れる獅子清帝国を倒し、台湾などを得てアジアの強国になった。半藤一利氏の名著「昭和史」の冒頭部で、日清戦争・日露戦争の勝利以降、『日本人はたいへんいい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が一所懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果になる、これが昭和二十年八月十五日の敗戦というわけです。』と記している。

 日清講和記念館を示す案内標識(下関) 日清講和記念館入口の案内板(下関) 春帆楼(奥正面)と日清講和記念館(右手前)

地図画像

 

地図画像

穏やかな初秋にさわやかな潮の香りと心地良い潮風。。。しかし、この関門海峡は近現代、日本の歴史の表舞台であり続けた。馬関(下関)戦争、高杉晋作の奇兵隊およびその挙兵、そして下関条約。

 *長州藩外国船砲撃事件(下関事件)は1863年、四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)は1864年、両者を総称して下関戦争(馬関戦争)ともいう。

 春帆楼の案内板(下関) 春帆楼の敷地内にあるフグの像(下関) 春帆楼の敷地内にある伊東博文(左)と陸奥宗光(右)の像(下関)

日本近代の重要な結節点たる下関条約は関門海峡を望む割烹旅館「春帆楼」(現在も割烹旅館営業)で行なわれた(1895年3月~4月)。下関条約を記念し復元すべく昭和になって建てられ「日清講和記念館」がこの「春帆楼」の敷地にある。年中無休で入館料は無料である。歴史に興味のある人はぜひとお薦めしたい。JR下関駅からバスで約10分赤間神宮下車。赤間神宮は壇ノ浦の合戦(1185)で入水した安徳天皇が祀られている有名な神社。日清講和記念館に隣接している。

 日清講和記念館に復元された下関条約の間(下関) 下関条約を伝える史料(日本史の図説(浜島書店)より) 春帆楼のオリジナルポン酢(880円

こちらもどうぞ