「推論と反駁」~科学的真理と宗教的真理~ カール=ポパー著

自然科学は 提示する「人間は死んでしまえばそれで終わりだ」という真実。「人間は死んで単なる物になる」「人間は死ぬと魂もなく精神もなく天国も地獄もない」という真実。だからこそ、生きている「今」という時間に「生きている」という実感を味わい「生きている」楽しさを享受すべきである。

夏草や…の句碑(岩手県平泉)

生きている人間は過去の歴史に対して、芭蕉の名句“夏草や兵どもが夢の跡“がかもし出す気分を感じ取る。そこに祭のあとの余韻のような気分を感じ取る。そのような気分を味わう時間とは、生を懐かしむ時間、お互いに「もうこれがないとだめだ」というふうに真剣に夢中になっていた時間、素晴らしく人間くさい生の時間である。しかし、その次の瞬間に、死んだ今となっては、みんな等価値なんだというニヒリズムの風景が広がる。そして、愛も憎も、富裕も貧困も、美も醜も、宗教も非宗教も、神も無神も、観念論も現実論も、そして生も死も、結局のところ死に収斂して。。。19世紀ドイツの哲学者ニーチェにおけるニヒリズムの定義は「お互いの対立事象はみな等しくすべて等価値。」である。

 「実在論と科学の目的」(ポパー)「ポパー」(清水書院)

人は自然科学の恩恵を受けたし現在もなお受け続けている。それは、庭の木が夜動き出して自分のほうに向かってくるとか、ぬいぐるみの人形が寝ている自分を守ってくれるなどといった原始人や幼児が持つアニミズムからの解放。。。それは無知から有知への誘導と啓蒙。。。それは科学的真実。。。ここでいう真実とはすなわち科学の真実のことであるが、宗教的な”真実”と異なり絶対性を持たず、とりあへず現時点では正しいが将来それは否定される可能性を秘めているものであるという属性を持つ。つまり科学的真実は常に反駁可能性を秘めているものである。すなわちアインシュタインとマルクスを例示したカール=ポパーの「推論と反駁」が享受してくれた真理。。。ポパーの認識論においては、”アインシュタイン”は反駁可能性を秘めた科学であり、”マルクス”は絶対性をもった宗教であった。価値あるものは反駁可能性をもった科学的真実であり、絶対普遍的な宗教ではない。反駁可能性を秘めた科学は探求するが、絶対普遍性を持った宗教はその絶対性ゆえに探求せずただただ無条件に信じる。

 

自然科学は「ヒト」の肉体がほとんどがタンパク質と水とからなっていると解明する。ヒトはタンパク質や水という物質がゲシュタルト的に働きあってタンパク質や水を遥かに超えた精神や感情や意識を有した「生き物」なのだと解明する。そして精神や感情や意識を有した「生き物」は30余年(シエラレオネ人の平均寿命)や80余年(日本人の平均寿命)の有限な時間を生き続けるが、やがて精神や感情や意識といった人間的な諸相はすべて永久に停止し永久に壊れた機械のような死体となるという真実を語る。。。

 

たとえば人間の死体に触れたとき、たとえば有島武郎が体中蛆虫に蝕まれた首吊りの情死状態で発見されたのを想像したとき、おそらく誰でも、かつての「生き物」がまるで冷ややかな「粘土物体」のように、あるいはまるで虫がたかっている腐った果物のように変じているのを感じるであろう。

 

そのとき、神や宗教や魂が単なる観念の世界であったことを感じるであろう。神や宗教や魂の存在を全く否定するような単なる「粘土物体」を感じるであろう。そして、今こうしてその冷たさを感じている自分も必ずや近い将来そうなるであろうと次の瞬間に感じるであろう。

 

そしてその途端、人生は有限なんだ、人生には一回性という属性があるんだ、命の大切さを認識し生きることを少しでも長く感じたい、人生をできるだけ楽しまなくては、人生には時とともに必ずや楽しい旅の終わりの名残惜しさの気分が立ち込めてくる、なんてことを感じるであろう。死後の世界なんて生きている人間によって死の恐怖から逃れるためあるいは生の苦痛から逃れるため生み出された妄想の世界であるって感じるであろう。

 

死後の世界なんて存在しない。世界とは生の世界のことで、死後の世界なんて全く架空の世界である。タンパク質や水がゲシュタルト的な有機の呈をなしているときだけが世界=生の世界なのである。「死後の世界」という妄想は、人間がそのことをじゅうぶん過ぎるほど承知しているという逆説的な証明だ。皮肉にも禅宗という宗教が一瞬の中に生を見出す「瞬間悟入」という境地を伝えまさしくいつ死ぬかもわからない戦国武将に受け入れられた。禅宗の「瞬間悟入」の境地も人間が有機的生命体でしかないという真実の逆説的証明だ。「宗教や神が存在する」とは、死の恐怖あるいは生の苦痛からの逃避願望が本末転倒して願望ではなくなって事実に誤変換され「リアリズム」になったということだ。

「前赤壁の賦」(蘇軾)

人間は「夫れ、浮遊(ふゆう *かげろうのこと)を天地に寄す、渺(びょう)たる滄海の一粟(いちぞく)のみ」(蘇軾「前赤壁賦」)のような存在である。それ以上でもそれ以下でもない。人間は生き物であるので、動物的リアリズムを以って、種の保存という動物的リアリズム以外には無目的にこの地上に生まれ、単に細胞分裂の停止や戦争や病気や事故でこの世の中の生き物でなくなる。「人間はなぜ生まれたのか?」「人間は何処からきて何処へ行くのか?」という疑問に対する答えは「無目的に生まれて不条理に死ぬ」である。人間は本能的に死から遠ざかって本能的に生きようとする。本能的に生きようとするのは死という現実を逆説的に証明している。死後の世界を想定するのは死という現実を承知しているからである。

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