中間色的美~ルソー・芭蕉・桂離宮~

 

アンリ=ルソー「カーニヴァルの夜」(1886年) アンリ=ルソー「カーニヴァルの夜」(1886年) *第2回アンデパンダン展出品作品。現在はフィラデルフィア美術館所蔵。

 

「満月に照らされた青い澄んだ夜空に浮かび出る、葉の落ちつくした樹木の繊細なはがね細工のようなシルエット。ピエロとコンピーヌに仮装して散歩する男女。…深い静けさがここにある。…」(「新潮文庫33ルソー」より)。ルソーの名画「カーニヴァルの夜」

‘青い澄んだ夜空’のクリスタルな群青色、’葉の落ちつくした樹木’の何本もの枯れ枝の線、そこに漂う’深い静けさ’がかもし出す透明感…この直線的な空間が発してくる声は何か。マーラーの音楽やムンクやクリムトの絵がシンボライズするむき出しの人間臭さではなく、それを承知してそれを超越して迫ってくる感覚的美、透明感に満ちた硬質な美である。それはちょうどキリコの絵にしばしば登場する長い幾何学的な影がつくり出す雰囲気に似ている。理性的なものと情念的なもの…二元論…。一見感覚的でクールで理性的な面持ちに見えるルソーの名画「カーニヴァルの夜」の世界は、情念的領域をも承知した一元的な人間世界である。

 

ねぶ(合歓)の花 ねぶ(合歓)の花

芭蕉の「象潟や 雨に西施が ねぶの花」における美。秋田県象潟(きさがた)町に芭蕉が訪れた際に詠んだ句。淡いピンク色のねぶの花が雨に霞んでぼんやり見える様はちょうど中国古代史に登場する絶世の美女西施(せいし)のように美しいといった内容の句である。雨に霞んだ淡いピンク色の美しさを特筆している。赤のような原色ではなくピンクは中間色である。白から赤にいたる途中の色。中間という価値。漸進的で連続的である。両端を埋める役割の中間に価値を置く。中間は両端を成り立たせる密なる部分である。「緻密さ」にこそ日本的な美的価値を感じる。同時に、中間色指向性は極端を嫌い円かな空間や時間を現出する。我々はその中で幸福や安寧と一体化する。

 

桂離宮(京都) 桂離宮(京都)

 

「桂離宮」の美。樹木や水を携えた「自然」たる庭園と桂離宮という「人工」たる建築物が連続的にひとつの空間に配置されている。桂離宮の庭園に面した部屋は、部屋の枠がまるで額縁の縁であり、襖を開けて見る庭園の空間が額の中の絵であるかのように配置されている。庭園の風景は、部屋の枠を額縁に見立てた3次元の絵画なのである。戦前ドイツの建築家ブルーノ=タウトは、桂離宮のこの自然との連続的な「日本の美」を絶賛した。

 

桂離宮も芭蕉の句も自然との自然な調和を内在した美的価値を表出する。アクセントのあまりないやわらかい中間色的指向性。キリコの乾いた透明な影が自らの延長としてではなくむしろ憧れや感傷を以って描かれた彼岸的世界であるとするならば、桂離宮や芭蕉の句は何かを目指すのではなく自らの延長としてあまりに自然な此岸的世界である。前者がこうであるべきだといった父性性を帯びているとすれば、後者はありのままを受け止める母性性を帯びているということかもしれない。一般的に、物事に対して明瞭な表現を重視する欧米的視点に立つと、「婉曲表現」や「以心伝心」や「目は口よりものを言う」といった日本的接し方は中間色的指向性の表れであるかもしれない。そして日本的美意識は欧米的・大陸的ないわば原色的指向性と対照をなしているともいえる。

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