北竜町のひまわり

 

北竜町のひまわり 北竜町のひまわり ひまわり畑の案内板

春から夏、北海道は広大な花の大地と化す。旭川のカタクリ、静内の二十間道路の桜、松前の桜、滝上の芝桜、札幌のライラック、礼文島のレブンアツモリソウ、富良野のラベンダー、小清水原生花園のエゾキスゲ、そして北竜町のヒマワリ・・・・価値観の形成の背景には、家庭や社会や学校における教育をはじめとする自分を取り巻く環境、つまりア=ポステリオリ(経験的)なものが存在する。しかし、価値観は、そもそもそれを受容する個々人のア=プリオリ(先験的)なものが存し、ア=プリオリなものがそのようなア=ポステリオリなものを内在化して自分のものとして定着させる。モーツァルトの交響曲が流れたとき単にBGMと受け止める人がいれば、いっぽうにおいてはそのアーティキュレーションを詮索する人もいる。ア=プリオリなものの構造はひょっとすると親譲りのDNAなのかもしれない。

北竜町のひまわり

7月下旬から8月上旬にかけて広大な畑一面に満開に広がる北海道北竜町のひまわりは全国からの多くの観光客を惹きつける。鮮やかな黄色、同一なものの圧倒的な数、同一なものが延々と続く広がり、非日常的な大きさ、湿度の低い北海道の空気と風の音の中にかき消される人間の声や音、風に飛ばされていく人間の声、乾いた夏の日差しと空気と風が現出する広々とした静寂さ、生を感じる幸福な時間。

圧倒的な数と広がりを楽しませてくれるひまわり自身は、当然のことながら数や広がりを意識していない。ひまわり自身は人間が感じるように感じていない。ひまわり自身はただ生物としてのみ存在している。人間がかってにそのように感知し感動する。北竜町のひまわりに対する感動は、その非日常的な数と広がりに由来する。そしてこのような数や広がりというア=ポステリオリなものを感知し感動する背景には数や広がりに対するア=プリオリな内的な構造がある。

ドイツの哲学者インマヌエル=カント(1724~1804)は、我々の認識が対象に従うのではなく、対象が我々の認識に従う、つまり対象は主観のア=プリオリな形式(先験的形式)によって構成される、と説明した。ひまわりの数と広がり(=対象)が圧倒的な感動を有しているのではなく、それを見る人間(=主観)がそういうふうに感得したので(=主観がそういうふうな感得を構成したので)数と広がりを感じているのである。

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