音威子府(おといねっぷ)~北海道命名の地~

 

オロロンライン(苫前付近) オロロンライン(遠別の道の駅) オロロンライン(遠別の道の駅)

遠別道の駅

 

1869年蝦夷地は「北海道」と改称された。それは、幕末から明治時代前半に生きた松浦武四郎(1818~1888 三重県松坂出身)の建言によるものであった。すなわち松浦武四郎は「北海道」の命名者である。道北音威子府の天塩川流域で、1857年の探検の際、松浦武四郎はアイヌ本総長アエトモから「アイヌは自分の国のことをカイと呼ぶ」と教えられた。これこそ、1869年「北加伊道」(→「北海道」)採用の源流である。

北緯45度通過点(幌延町) 

[北海道命名の地]案内板(国道40号線) 北海道命名の地(音威子府) 

 

音威子府「北海道命名の地」

 

地図画像

松浦武四郎の人生は全国に渡る「旅」そのものであった。とりわけ、他に類を見ない、そして全く追随する者がいない異常ともいえる蝦夷地探検唯一の功績者であった。彼は単なる旅行家・探検家ではなく膨大な紀行書籍の作家であり学者であり、さらに最大級のヒューマニストでもあったといわれる。

①第1回の探検(1850)をまとめた紀行著書
  ・「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)

②第4回の探検(1856)をまとめた紀行著書
  ・「按西扈従」・「按北扈従」・「按東扈従」・・・全32冊

③第5回の探検(1857)をまとめた紀行著書
  ・「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」・・・全23冊

④第6回の探検(1858)をまとめた紀行著書
  ・「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」・・・全62冊

⑤その他
  ・「蝦夷漫画」・「近世蝦夷人物誌」
  ・「東西蝦夷山川地理取調図」(地図)・北蝦夷山川地理取調図(樺太南部の地図)

⑥辞世の和歌
  「花咲て また立出ん旅心 七十八十路 身は老ぬとも」
(明治20年3月22日、70歳の武四郎が生涯最後となる旅を前に詠んだ和歌)

~松浦武四郎の行程~

(松坂市の松浦武四郎記念館のHPより 下記の地図左より第4回探検(1856)・ 第5回探検(1857)・第6回探検(1858) )

  松浦武史郎の第4回探検ルート(1856) 松浦武史郎の第5回探検ルート(1857) 松浦武史郎の第6回探検ルート(1858)

現在、松浦武四郎が残した北海道の調査探検の功績跡は道内いたるところで見ることができる。「北海道命名の地」(音威子府)・「松浦武四郎像」(天塩鏡沼海浜公園)・「松浦武四郎像」(留萌郡小平町道の駅「小平鰊番屋」)、その他厚岸・根室など。

松浦武史郎像(天塩鏡沼海浜公園) 松浦武史郎像(留萌郡小平町道の駅[小平鰊番屋])

明治政府に対して武四郎は「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海東道」「東北道」「千島道」の6案を上申したがそのうち「北加伊道」が採用されることになった。「北加伊道」の加伊=カイとは「アイヌの人」を意味し、したがって「北加伊道」とは「アイヌの人が住む国」という意味である。彼は蝦夷地探検の際に常に現地のアイヌ人とともに行動しアイヌ人の生活や文化を受容して生涯アイヌ人への共感と尊重の念を持ち続けた。日本政府のアイヌ人蔑視の姿勢に対して鋭く対決した。北海道開拓使の役人を辞した経緯はまさしくアイヌへの共感・日本政府の政策に対する反発と批判の表れであった。

松浦武四郎の業績、いや業績というより緻密さと徹底さの背景には、おそらく、情熱と深遠かつ強靭な内発的動機と、ア・プリオリなものの大いなる存在を想像せざるを得ない。それは物質文明にうずもれてしまった受動的人間に憧憬への情熱の大切さを喚起させてくれる。

音威子府は、悠々としていて、道北の清新さと寂寥の感を存分に味わわせてくれる素晴らしいところである。音威子府は黒くてやや太目の麺のそばで有名である。音威子府の8月は内陸だけに暑いけれども、湿度の低い北海道の夏らしく、本州で言えば薫風かおる5月の爽やかな暑さである。つい陽光を体中いっぱいに浴びたい気分になる。

音威子府の黒そば 音威子府のそば畑 音威子府の道の駅

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