コシャマインの戦い・シャクシャインの戦い

【コシャマインの戦い】

室町時代1456年、アイヌの青年が和人に道南の志濃里(しのり または志苔)で殺害された。和人は製鉄の技術がありアイヌ人にはなく、アイヌ人は鉄製品を和人の不当なやり方で購入せざるを得なかった。このアイヌの青年は和人に注文したマキリ(小刀)の切れ味や値段のことで口論となりこの和人に刺殺された。この事件が原因で翌1457年アイヌ東部の首長コシャマインのもと和人に対し蜂起した。コシャマインの戦い(1457)である。アイヌは道南の和人の拠点12館のうち志苔館(現在の志館町)や箱館(現在の函館市)など10館を陥落させた。花沢館(現在の上ノ国町)と茂別館(現在の北斗市)のみが残った。しかし最終的には花沢館の武田信広(近江武田氏の子孫)にコシャマインは討たれて敗北した。この事件を機に和人勢力は拠点の函館を退いて大館(松前)に移さざるを得なくなった。

【和人の進出】

その後和人間の勢力争いも進んで結局花沢館に拠った蠣崎氏がひとり勢力を持った。蠣崎氏は青森の十三湊を拠点に日本海交易を支配していた青森の豪族安東氏に取り入って蝦夷の代官となり蝦夷の和人勢力の支配者にのし上がった。蠣崎氏は1593年秀吉から蝦夷島首としての朱印を得、1599年には家康に謁見し蠣崎から松前に改称、さらに1604年松前氏は松前藩の藩主としてかつ蝦夷交易独占権を承認された。こうして江戸時代アイヌへの搾取がしだいに強められていった。

【シャクシャインの戦い】

シャクシャインの像 シャクシャインの像 シャクシャインの像のモニュメント 

17世紀半ばシベチャリ(静内)の狩り場をめぐって石狩から白老あたりまでの西のアイヌ人勢力(シュムンクル)と静内から釧路あたりの東のアイヌ人勢力(メナシウンクル)との紛争が起きた。西の勢力の指導者はオニビシ、東の勢力の指導者シャクシャイン、シャクシャインがオニビシを倒した。しかしシャクシャインはオニビシ側に立った松前藩と戦うべく全アイヌの大同団結を全アイヌモシリ(アイヌモシリとは北海道のこと)に呼びかけた。松前藩はシャクシャインと和睦したがシャクシャインを酒宴の席で毒殺した。シャクシャインの戦い(1669)である。この事件以降アイヌに対する松前藩および和人による徹底的な搾取や非道が展開されるようになった。

*シャクシャイン像:「層雲峡氷瀑まつり」の考案者でもある彫刻家竹中敏洋氏の作品

シャクシャイン城址 シャクシャイン城址 シャクシャイン城址公園から静内を望む

北海道のさわやかな空気や風や雄大な大地といったイメージとは裏腹に、いつもアイヌの歴史には劣勢なる少数民族の歴史が脳裏を過ぎる。力と偏見の歴史がここにもある。

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