榎本武揚の蝦夷地上陸の地「鷲ノ木海岸」と五稜郭

明治新政府のもと日本は近代の幕を開けた。しかしいっぽうにおいて旧江戸幕府勢力は最後の抵抗を進めていた。京都の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争(1868~1869)である。むろん軍事力に勝る新政府軍が連戦連勝し旧幕府勢力は関東から東北に追い詰められていった。そのような中、榎本武揚率いる旧幕府海軍あるいは脱走艦隊は、明治新政府とは別の独立政権「蝦夷共和国」設立を夢見て北海道に向かった。榎本らの艦隊は道南の鷲ノ木海岸に投錨し上陸した。鷲ノ木海岸は現在の茅部郡森町に位置する。

榎本武揚北海道上陸の地

 

地図画像

 

鷲ノ木海岸には「旧幕軍上陸の地」と記された木の碑が太平洋に向かってたっている。この付近には同類の石碑もあり丘の上の史跡公園には歴史を文面化した案内板もある。しかしながらこの史跡は「知る人ぞ知る」といった感である。音威子府の「北海道命名の地」に似た「扱い」を感じる。。。1066年の有名なイギリスのヘースティングズの戦いの史跡もそのようであると人から聞いたことがあるが。。。

 

榎本武揚北海道上陸の地の案内板(鷲ノ木史跡公園) 榎本武揚北海道上陸の地の地図(資料)

歴史に学ぶように榎本武揚の夢は夢に終わったが、時代が移り変わる激動の明治元年、現在我々は幾多の歴史ドラマ・歴史ロマンに思いを馳せざるを得ない。そして同時にこの国の行方のために多くの尊い血が流されたことも看過できない。武家社会の掟なのであろうか命を懸ける「一所懸命」の精神は「命の大切さ」の精神とは程遠い。程遠く人間に対するぞんざいなあり方である。

五稜郭の桜 五稜郭の桜 武田斐三郎の碑(五稜郭公園内) 

函館の五稜郭に5月上旬桜前線が到着する。エゾザクラが北の最も有名な史跡を彩る。遅い春冷涼な空気に桜は落ち着いた花見模様である。

五稜郭は日露和親条約(1854)締結を機に北方防備のいっそうの必要性から築城された。着工は1857年竣工は1865年。江戸幕府滅亡が1867年ということからすれば五稜郭の建築は幕末中の幕末。設計者は函館奉行諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)。名前のとおり五端に突き出たひし形の陵堡式築城は大変ユニークで印象的である。

箱館戦争の際に官軍が用いた大砲

五稜郭は函館戦争の頃はすでに時代遅れなものであった。もともと17世紀フランスの技師ヴォーバンが設計したものであった。しかし、この要塞は当時は最高とされたが19世紀戦術の近代化に伴い普仏戦争を機に廃れていった。函館の五稜郭は石垣が組まれたりしているが、その点は日本の築城様式との融合とされる。現在五稜郭を有するヨーロッパ諸国との「五稜郭サミット」なるものが開催されているという資料も五稜郭内の奉行所に写真付で示されている。

半月堡の案内板 五稜郭の半月堡からの桜

五稜郭の正門をくぐって堀にかかる橋を渡るとすぐ「半月堡」の案内板に行き着く。半月堡は五辺にすべて設ける予定であった突き出しの堡塁のことであるが財政面から1箇所のみとなったそうでその1箇所が残っており勿論のぼってみることも可能である。どこから攻撃されても対応できる要塞である。

五稜郭は函館湾から3kmほど入った内陸に位置する。これは当時の艦砲射撃の砲弾が届かないことを想定した距離からくるそうだ。しかし函館戦争の頃はすでに軍事技術の進歩により砲弾は届くようになっていたようである。

五稜郭内の箱館奉行所(2010年改築)舎上部の太鼓櫓はめだって函館湾からの標的になるからという理由で旧幕脱走軍が取り壊したが被害は防げなかった。やがて榎本の箱館政府は降伏して五稜郭は明治政府に接収された。2010年復元改築された奉行所には太鼓櫓が載っている。

 復元された箱館奉行所    箱館奉行所内から五稜郭を眺める

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