北海道「青と白の風景」

根室の3月。まだ冬の真っただ中。本格的な春の到来に向かって1日約1分日が長くなることを思い出すと、早春の風景のなかにいることを感じる。根室3月の夕暮れの雪原風景。夕陽と冷たい夕風。雪原に夕風の音が通り過ぎる静寂な時間。冷帯湿潤気候(Dw)。夕闇の雪原の風景は人間存在のことを遠望させる。

 3月根室

「異邦人」「ペスト」「シーシュポスの神話」の作家アルベール=カミュは人間の存在をこのような自然と密接につなぎながら観た。そこが理性的観点から実存を定義したサルトルと大いに異なる点だ。人間観という点において僕はカミュに軍配をあげたい。理性は論理にエネルギーを与え、論理は事象を「説明」する。しかし、まず事象があり、論理は事象を説明する手段に過ぎない。ありのままの事象よりも手段的位置にある論理的な在り方に価値が置かれることは不自然である。これはちょうど、まずコミュニケーションの具たる言語があってそれを説明する手段として文法が形成されたのにも拘らず、手段たる文法が生きたコミュニケーション言語を支配する構図を作るようなものだ。これはちょうど、「手段」の立場にある法が法の前提になっている倫理や道徳や通念を僭越的支配する「法による支配(rule by law)」のあり方と同様だ。それは「法の範囲内における自由権」を明示した大日本帝国憲法下における法秩序の在り方だ。もちろん、民主主義憲法たる日本国憲法では「法の支配(rule of law)」、つまり道徳や倫理や通念が法に優越する自然法思想を根底に置く。

 3月日勝峠

カミュにおける「不条理」はまず論理の前に存在があるという人間存在の具現を意味している。サルトルは、論理で説明できない人間存在を論理で説明しようとした。僕はカミュに軍配をあげたい。

3月の夕闇の雪原風景は静寂で美しい。人間が自然の一部であることを改めて伝えてくれるようだ。

本州では晩春の5月麦秋の季節、道東静内では桜の季節。有名な桜の名所「二十間道路」は全国からの観光客でにぎわう。少し肌寒くさわやかな風の中、北の大地の悠然とした桜の景色が広がる。

5月道東静内「二十間道路桜並木」

北海道の夏は短いので、なおさら名残惜しい。なおさら懐かしく思い出深い。低湿な空気と炎天下とは程遠い乾いた暑さゆえに夕風はたちまちにして昼の汗を拭き去る。北極圏の人たちが太陽を恋しく思う気持ちが理解できる。太陽の温かさが心地よい。音威子府の真夏の蕎麦畑で感じる太陽は本州でいえば5月のさわやかな陽気だ。しかしこの短い夏の太陽光線の感触は懐かしくも名残惜しい。秋を感じる高い空を仰ぐ夏のイタンキ浜(室蘭)は多くの人でごった返す湘南海岸とは全く異なった夏の風景だ。にぎやかさに高揚する都会の気取りとは程遠い。潮騒も思い出深い。内省的で時間を遠望する。

 8月白滝村

 8月オロロンライン(北日本海沿岸)

8月室蘭イタンキ浜

「秋は郷愁を誘う」とはAIが闊歩する現在においては、もうすでに過去に追いやられた文学用語かもしれない。しかしながら、どんなにメカニックな風景が広がろうと、札幌の繁華街にいても一陣の秋風を感じないことはない。秋は加熱した夏の反動として、さらに進みゆく人生の時間を追憶させる。郷愁とはこれまでの時間への追想。秋の雰囲気はいわばこの切ない時間を助長する。人生の時間を感じさせる秋は、おそらく若者にとってロマン、老人にとって懐古。この感覚は日本の環境や教育的空間や家族の時間のなかではぐくまれたものであろうか、本能であろうか。北海道の気候は紅葉の季節を一層際立たせる。

世界遺産「知床」は極寒の季節が素晴らしい。さいはての岬。雄大で厳しい自然。日常のなかの争いごとなんか笑止千万。人間の小ささを感じる。ニーチェの運命愛の境地がわかるような気がする。知床の海に広がる寒風と雲の間に間に覗く青空。波しぶき。エゾシカやオオワシが眼前に行きかう、彼らの縄張りに入り込んだようだ。

1月知床ネイチャーセンターから

“北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリ(=羊蹄山)の麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せるうねりのように跡から跡から吹きはらっていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向かいながら黙ったまま突立っていた。 ”と有島武郎が「カインの末裔」の冒頭部で記した。

おそろしく強大な冬の塊が道内をゴーゴーと唸りながらやって来る。北海道の極寒の中にいるということは大自然の一部になっているということだ。

1月知床ウトロ漁港

 

 

新千歳空港

こちらもどうぞ