近現代日本史既出論述問題テーマ

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vol 1 「松方財政⇒近代日本の資本主義の基盤形成・寄生地主制・狭小な市場」(一橋大学既出 類題)

①経済・財政の安定および出超貿易
・最初の企業勃興・会社ブーム(1886~1889)
 松方財政のデフレ策による財政の安定は財閥等の企業の勃興を促進させ会社ブームを到来させた。

 松方財政は近代日本の資本主義の基盤を形成した。
・松方財政による緊縮財政+松方財政効果による企業勃興→出超貿易
 松方財政による緊縮財政は輸入抑制を促進させその分輸出が伸長した。さらに企業勃興は製品の輸出につながったので、

 総じて1880年代前半以降は出超貿易(黒字貿易)に転じた。
・綿糸貿易:1890年国産綿糸が輸入綿糸を上回った。
 ミュール紡績機(渋沢栄一の大阪紡績会社)の導入なども要因。
  *1897年輸出綿糸が輸入綿糸を上回った。

②松方デフレ策+一定額の地租システム→中小地主の没落→寄生地主創生→狭小な市場→海外への市場拡大→アジア・太平洋戦争
・地租改正条例における地租は物価の上下に無関係に一定であった。「富国」を維持し欧米に追いつくという大前提に基づいていた。デフレ策を講じた松方財政(1880年代前半)の結果、この「一定」が中小地主を小作人に転落させ、いっぽうにおいて低賃金小作人を酷使する寄生地主を生じせしめた。大量の貧乏小作人を踏み台にし財を成した寄生地主は資本主義の担い手となったが、それは狭小な国内市場の形成を促進させた。狭小な国内市場の代替としての海外市場を求めて日本は朝鮮や中国に帝国主義的侵略を行った。端的に地租の「一定」および松方財政および松方財政がもたらした寄生地主制度はアジア・太平洋戦争の重要な要因となった。戦後マッカーサーは「農地改革」を敢行、寄生地主を消滅させた。欧米に追いつくための「富国」
 →地租改正(1873)における「一定額の地租」
 →松方財政(1880年代前半)におけるデフレ策
 →中小地主の没落・小作人への転落
 →寄生地主の創生と大量の低賃金国民の創生    
 →大量の低購買力国民の創生=狭小な市場の創生
 →狭小な市場の代替として海外市場獲得をめざし帝国主義的侵略
→アジア・太平洋戦争(1931~1945)
→農地改革(1946 第一吉田茂内閣時、自作農創設特別措置法)

vol 2 民本主義の限界(東京大学既出 類題)
・吉野作造(1878~1933)による民本主義 
 吉野作造は宮城県出身、仙台一高→東京帝国大学法学部を主席で卒業。東大教授時代、総合雑誌「中央公論」1916年1月号に民本主 義を提唱すべく『憲政の本義を説いて其の有終の美の済(な)すの途(みち)を論ず』と題する論文を発表した。吉野作造の民本主義は、主権の曖昧さが故に批判されたものの、大正デモクラシーの指導理念となった。
 吉野は、「国家の主権は人民にあり、主権の活動の目指すところも人民にあり」という理念を骨子とする概念をデモクラシーと定義した。しかし吉野はデモクラシーを民主主義という用語を用いず民本主義という言葉を用いた。吉野の定義したデモクラシーの内容は現在の民主主義であるのになぜ民本主義という言葉を用いたのか。端的には大日本帝国憲法下の主権は天皇である故、人民主権=国民主権という用語は大日本帝国憲法に抵触するからである。

★大日本帝国憲法-天皇主権‐非国民主権⇒民主主義に合致せず。
★日本国憲法-国民主権⇒民主主義に合致する。
★大日本帝国憲法-天皇主権のもとの国民主権-民本主義の用語使用。

吉野の民本主義は概ね現在の民主主義であるが、現在の民主主義における主権が自然法に基づく基本的人権を有する国民であるのに対して、明治憲 法下にある大正期の主権は立憲君主制下の天皇にある。言葉に忠実な意味において現代のデモクラシー(民主主義)とは国民主権において成立するものである。したがって、国民主権ではなく立憲君主制を奉じる大日本帝国憲法下における大正デモクラシーはデモクラシー(民主主義)という言葉に一致しない「デモクラシー」である。いわば「立憲君主体制下のデモクラシー」である。

大正デモクラシーが前述のように「立憲君主制下のデモクラシー」=「君主主権国家下のデモクラシー」を前提としていたので、おのずと大正デモクラシーは国家主義(ナショナリズム)を呈した。それゆえたとえば対ロシアという側面をもつ日比谷焼打ち事件は排外的側面があった。また1919年の三・一独立運動に対して民本主義者は批判的であった。大正デモクラシーは、デモクラシーという解放的でリベラルなイメージは、国内に限られ狭い範囲に限定されていた。大正デモクラシーのこのようなナショナリズム的側面こそ、イメージから浮かぶ国際協調や平和主義から離反していた。それゆえアジア・太平洋戦争の防止装置とはなり得なかった。

東京中央郵便局入口前の葉書の樹「タラヨウ」
東京中央郵便局入口前の葉書の樹「タラヨウ」

vol 3 緊縮財政政策・金解禁(浜口雄幸立憲民政党内閣期・井上準之助蔵相)
☆金解禁(金輸出解禁1930.1.11~1931.12.12)の背景と実際☆
 第一次世界大戦中ということもあり欧米列強に倣い1917年寺内内閣期金輸出禁止が実施された。それ以来金本位制に基づく国際貿易を日本は停止していた。金本位制に基づく貿易は固定相場制であるが金輸出禁止期間の貿易は変動相場制であり為替相場は不安定であった。その結果輸出は控えめになり輸入超過につながった。為替相場の安定および貿易の拡大および黒字貿易にするためには金解禁が必要であった。さて金解禁の際いかなる平価・為替レートで実施するのかが問題となった。
 現状(=1930年頃)の平価=新平価は相対的に円の価値が低い=より円安⇒輸出に有利、貨幣法(1897)当時の旧平価は相対的に円の価値が高い=より円高⇒輸出に不利、という原則を踏まえてみると、輸出を伸ばすためには新平価で金解禁したほうがいいのだが、井上蔵相は旧平価での金解禁を主張した。したがって、輸出が促進されるような(=輸入を促進しないような)国内経済環境が期待された。すなわち“物を買わない”緊縮財政が必然的に財政政策となった。こうして浜口内閣は1930年1月11日旧平価による金解禁に踏み切った。

 ☆金解禁の背景と理由☆
#1 金輸出禁止⇒その都度取引⇒為替相場不安定=円高
・円安は当時世界第3番目の強国日本のイメージダウン・国際信用失墜。
#2 金輸出禁止⇒変動相場制⇒円高⇒輸出減・輸入増⇒外貨流出⇒日露戦争の戦債返却期限
・円高状態では輸入増となり外貨が流出する。その結果期限が迫る日露戦争戦債返済(→外貨で支払う)が不可能になる。
#3 金解禁⇒固定相場制⇒円安⇒輸出増⇒外貨増大
#4 外圧=日本に金解禁を迫る列強の圧力
・列強の金解禁順序は以下の通りである。
米(1917)⇒独(1924)⇒英(1925)⇒伊(1927)⇒仏(1928)⇒日(1930)

 ☆金本位制の通貨価値・自動安定調節機能・国際収支の均衡機能に基づく出超貿易へのシーソーゲーム・シナリオという確信☆
≪金本位制の自動調節機能≫
金本位制停止
⇒国際貿易における為替相場はその都度取引=変動相場制
⇒日本の製品は国際競争力弱い
⇒変動相場制では固定相場制に比較して円の価値が低下
⇒インフレ・物価高=日本のモノは高い
⇒日本のモノは高いので売れない=輸出減=輸入増
⇒赤字貿易
⇒輸入品は金で支払う
⇒金保有量が減る
⇒国内経済において金保有量に基づく紙幣量も減る
⇒日本の国内経済は通貨量<モノ=デフレ
⇒デフレによる物価安
⇒日本のモノは安い
⇒日本のモノは安いので売れる=輸出増=輸入減
⇒黒字貿易

 ☆旧平価による金解禁の実際☆
  平価とは自国の通貨と外国の通貨の価値を比較する基準値のことである。金本位制度下では金の重さを尺度とする。ちなみに貨幣法(1897)における平価つまり旧平価では1円=金0.75g、1ドル=金1.5gというふうであった。
   

 ☆旧平価と新平価と円ドル為替相場☆
#1 貨幣法(1897)~第一次世界大戦以前の平価=旧平価に基づく為替相場
  1ドル≒2.005円・・円ドル関係=新平価と比して円高
#2 第一次世界大戦以後~金解禁時(1930)の平価=新平価に基づく為替相場  *新平価は石橋湛山らの造語
  1ドル≒2.152円・・円ドル関係=旧平価と比して円安
  

日本銀行本店(東京都中央区日本橋 辰野金吾設計 1896年竣工 江戸時代の彫銀家後藤家屋敷地跡)

 浜口内閣・井上準之助蔵相は1930年1月旧平価に基づく為替相場で金解禁を開始した。これは上記のように1930年時の実勢よりも円高であった。
 新平価という実勢に基づかず旧平価を基準とした理由には、旧平価基準を主張する立憲民政党と新平価基準を主張する立憲政友会の「党派対立」、また「金本位制の自動調節機能が働いて最終的には出超貿易に至るという考え」、さらに「世界第3位の強国日本が円の切り下げをするわけにはいかないというプライド」がその背景にあった。
 端的には日本は現実より背伸びした実力不相応な為替相場で金解禁した。

 ☆ニューヨーク株式市場株価大暴落(1929.10.29)をどう判断したのか☆
金解禁は1930年1月11日、ニューヨーク株式市場株価大暴落は1929年10月24日、時系列的に見て金解禁以前に世界恐慌の端緒が起きていた。政府はウォール街の株価大暴落をどう見ていたのか?換言すれば、この状況の中でなぜ金解禁に踏み切ったのか、という疑問が起きる。端的に2点の理由が挙げられる。1点目は金解禁の遅延は許されない、2点目は世界恐慌も10年に1度起きている恐慌に過ぎない通常の出来事ととらえていた、という理由である。要するに“たいしたことではない”と考えていた。

☆産業合理化政策~黒字貿易を目指して~☆
金解禁を経て国際貿易に復帰する以上、出超貿易つまり黒字貿易を目指すことになる。黒字貿易を実現するためには不健全な企業の整理をして国際競争力に勝てる製品の生産が必要になる。国際競争力に勝てるに値する製品の生産には生産・経営の能率や生産費の節約を実現して輸出拡大につなぐことが肝要である。浜口内閣がとったこのような国際競争力に勝てるに値する製品の生産を目指す政策を産業合理化政策という。
 
  ☆世界シェア45%アメリカの永遠の繁栄⇒過剰生産⇒世界恐慌(1929)☆
≪古典派経済学~自由放任主義・自由競争・小さな政府~の時代≫
第一次世界大戦後の国際経済はダントツにアメリカが王者であり、アメリカが生産する工業製品は世界シェアの45%を占めた。1920年代ハーディング→クーリッジ→フーヴァーと続く3人の共和党大統領の時代アメリカは「永遠の繁栄」と豪語した。自由競争の原理に沿った古典派経済学の発展は過剰生産・デフレをもたらした。ついに1929年10月24日(暗黒の木曜日)ニューヨーク株式市場(=ウォール街)の株価大暴落に始まる世界恐慌に直面した。このデフレこそ世界恐慌であり、アメリカでは1500万人余りの失業者を創出。
≪ケインズ理論・修正資本主義~政府の経済管理・大きな政府~の時代≫
世界恐慌の善後策として、フランクリン=ルーズヴェルト米大統領(民主党)はケインズ理論を採用した修正資本主義~具体的にはニュー=ディール政策~へ方向転換した。ケインズ革命と称される修正資本主義は政府が経済に干渉し安定した経済を創生するというものである。それまでの18世紀イギリスの古典派経済学者アダム=スミスの自由放任主義の修正ということになる。

☆金解禁の失敗~金解禁の失敗・「嵐の中に雨戸を開ける」~☆
日本は金解禁のシナリオに沿って黒字貿易を目指して国際貿易に乗り出したが、時同じくして世界恐慌の嵐に見舞われた。恐慌は株価が暴落して急にデフレ状態になる経済現象であるが、一般的にデフレはモノ余りカネ不足状態のことである。貿易相手国がこのようなデフレに陥ったことを考えれば、つまり貿易相手国がモノ余り状態になっていることを考えれば、貿易相手国への輸出は伸び悩み相対的に輸入が伸びるという結果になる。日本はこうした中モノを売る輸出伸長策に乗り出したわけである。上述のように相対的に輸入が増大し「嵐の中に雨戸を開ける」といわれるように金=正貨は大流出した。
 *嵐の中に雨戸を開ける外で嵐が吹きまくっているとき、家の窓を開けると部屋の中の物が飛んで行ってしまうように、金解禁で正 貨が流出したことを、ちょうど世界恐慌=嵐に向って家の雨戸を開けたようなものだと比喩した。

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