東京駅周辺歴史探訪(その2)

1 帝国ホテル東京(千代田区内幸町)からの夜景

  帝国ホテル東京初代は1890年渡辺譲設計のもと竣工(初代会長は渋沢栄一)、しかし1919年失火のため全焼、1923年アメリカの建築家フランク=ロイド=ライトの設計で2代目の帝国ホテル(⇒一部が愛知県犬山の明治村へ移築)が竣工、同年の関東大震災に対してもほとんど無傷であった。その後1945年の東京大空襲で4割ほどの損害を受け、戦後1954年3代目の帝国ホテルが竣工した。現在の帝国ホテルはこの3代目もので、改築されたり新館等が追加されている。地上17階・地下5階の鉄筋コンクリート製。

帝国ホテル東京からの夜景。有楽町方面を望む。

  日本を代表する最高級のホテルとして君臨している。しかし近年老朽化が目立ち、近い将来再建が計画されている。最寄駅はJR有楽町駅や東京メトロ日比谷駅など。10数階から見下ろす夜景は大都会の人工美だ。

帝国ホテルロビーにて。背後は東京の風景。
帝国ホテル本館入口。

2 ヤン=ヨーステン⇒邪陽子⇒八重洲のヤン=ヨーステンのレリーフ

ヤン=ヨーステンのレリーフ(八重洲口)。

①リーフデ号事件(1600 豊後臼杵(ぶんごうすき)=現在の大分県) 

・1600年オランダ船リーフデ号が豊後臼杵に漂着した事件。この船の乗組員であるウィリアム=アダムズ(三浦按針(みうらあんじん) 英)は長崎にイギリスの平戸商館を開設し、またヤン=ヨーステン(耶陽子(やようす) 蘭)は同じく長崎にオランダの平戸商館を開設した。

 *ウィリアム=アダムズとヤン=ヨーステンはいずれも朱印船貿易で活躍、日本で死

去した。ウィリアム=アダムズの名は神奈川県横須賀市に安針塚(あんじんづか)として

その名が残り、ヤン=ヨーステンの名は東京駅東口の八重洲として残っている。

ヤン=ヨーステン⇒邪陽子⇒八重洲のヤン=ヨーステンのレリーフ

・東京駅八重洲中央口から八重洲通を室町方面に2ブロックほど歩くと中央通り(国道15号線)と交差する。その交差点あたりの道路の分離帯に空を向いているヤン=ヨーステンのレリーフが埋められている。どうして危ない道路の真ん中なんだろうと考えてしまう。彼の胸像は東京駅八重洲口構内にもひそやかに設置されている。人の往来が少ない所なのでなかなか気づかない。

3 八重洲界隈江戸時代の手工業町の絵看板 と一ツ橋

 鍛冶屋町・紺屋町など集住した町人同業者を表示する絵図である。江戸の風情が浮かぶ。

現在の地名と江戸時代の町人町の位置関係を知る。
江戸時代の鍛治町の絵図。
一ツ橋(竹橋近辺)。
一橋大学はもともとこの地域にあった。

4 旧枢密院(皇居内)

『【金融恐慌の実際と善後策】

 ・鈴木商店倒産および台湾銀行救済緊急勅令案(1927)否決

第一次若槻礼次郎憲政会内閣は善後策として特別融資による台湾銀行救済を試みる台湾銀行救済緊急勅令案を発するが、立憲政友会田中義一および枢密院顧問伊藤巳代治の反対にあって台湾銀行救済緊急勅令案は否決され、若槻内閣は総辞職し、代わって立憲政友会田中義一内閣が成立した。』(自著「日本史特訓道場~昭和時代①~より抜粋」)

旧枢密院(皇居見学コースから)。

   枢密院はそもそも大日本帝国憲法制定のために1888年設置された役所であったが、憲法制定後も天皇の諮問機関の呈を成して戦前を通して大きな権限を持ち続けた。上述の「枢密院顧問伊藤巳代治」の文言からも想像できる。枢密院は現在は解体して、その建造物のみが皇居内に建っている。この建造物は現在の国会議事堂のモデルとなったされいる。

5 その他の史跡 

歌川広重の住居跡(八重洲)。
皇居(旧江戸城)桜田門。1860年桜田門外の変勃発。

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