東京大学世界史論述問題~「俯瞰と因果」の視点(その2)~

授業用世界史論述テキスト

1 ヨーロッパ文化圏とイスラーム文化圏の関係(中世~19世紀前半)

①7世紀~9世紀:イスラーム側の攻勢

ウマイヤ朝の地中海およびヨーロッパ進出は西欧の封建制・荘園制の成立を生んだ。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、西欧地域に従軍と引き換えに封土給与を約して従軍が募られた。すなわち中世西欧の封建制の源流になった。

・イスラム世界は古典古代文明を吸収してイスラーム文明を形成した。

②11世紀~13世紀:西欧側の攻勢

・西欧とビザンツ帝国の積極的な攻勢。十字軍運動、レコンキスタの本格化。

イタリア商人の地中海進出は西欧に商業ルネサンスを招来および中世都市形成を促進した。

革新の十二世紀(イスラーム文献の研究、大学の創設、スコラ哲学)が隆盛した。

・西欧の攻勢に対して、イスラーム側は傭兵マムルークの需要武断政治のー般化イクター制が進められた。カイロが中心であった。

③14世紀~16世紀:イスラーム側の反転

オスマン帝国のバルカン進出(ビザンツ帝国滅亡)、レパントの海戦等による地中海進出等でイスラーム勢力が挽回した。

・フランスはオスマン帝国とカピチュレーションを結び、反ハプスブルク体制をとった。

・オスマン帝国の地中海進出は大航海時代を誘発した。

・オスマン帝国のバルカン進出によってビザンツ学者がイタリアへ亡命した。その結果古典古代文化復活を目指すルネサンス運動に寄与することになった。

④17世紀~19世紀:西欧側の攻勢

カルロヴィッツ条約(1699)でオーストリアはハンガリーをオスマン帝国から奪還した。オスマン帝国の領域はドナウ川以南に後退した。

・19世紀になると、ギリシア独立戦争以降ー連の東方問題に際してオスマン帝国は衰退を深めた。

2 主権国家体制形成の特色~南北アメリカ・東欧・東南アジア~

①南北アメリカ

戦闘によって、そして外国の支援を得て西欧から独立し主権を得た。

アメリカ独立革命(1775~1783)とナポレオン戦争(1804~1815)が中南米への本国の干渉の弱体化を促進した。

・中南米の独立は短期間クリオーリョを主体としていたゆえ民族的統ーは実現し得なかった

・南北アメリカ独立の支柱は啓蒙思想にあった。

・大抵は共和国で独立した・各独立国は旧支配国家の地理的遠隔さという点でも共通していた。

②東欧

・南北アメリカと同様東欧諸国も絶対主義的支配体制からの独立して主権を獲得した。

・南北アメリカと異なって東欧の場合、多くは旧支配国家と同様の民族からの独立であった。いわば主権国家が細分化されて、スラブ人からスラブ人国家が独立したという様相を呈した。

民族自決思想とロシア革命の影響を受けていた。

・大抵は王政か独裁国家であった。

・各独立国は旧支配国家の地理的近接さという点でも共通していた。

③東南アジア

・南北アメリカや東欧と異なって東南アジア諸国は、白人から有色人種による独立および主権を獲得した。

・大抵は英米仏から長い犠牲の多い戦闘を経ての主権獲得であった。

民族主義を支柱にした。

・大抵は共和国の政治形態をとったが、一部には社会主義の政治形態の場合もあった。

3 華僑の歴史的動向と国内的・国際的要因

①華僑の端緒

倭寇に業を煮やした明朝は海禁を緩和した。その結果、華僑は明代(16世紀)以降福建省や広東省から海禁を犯して東南アジアへ出稼ぎに出国した。

②19世紀以降華僑拡大の内因と外因

・1820年代から約100年間が大量の華僑出国の時代であり、その間1000万人相当の華僑が海外に流出した。

【国内的要因】

・福建・広東は人口増大と土地不足が持続していた。

・アヘン・アロー戦争で欧米製品流入による経済的打撃があった。

・アロー戦争の北京条約(1860)による海外渡航の解禁は、中国がそれまでの冊封体制を消滅させて国際資本主義体制の枠組みに編入されたことを示している。

【国際的要因】

・欧米列強の工業化と植民地化に対する安価な労働力の需要が国際社会において存在した。具体的には、東南アジアのゴム農園や錫鉱山の労働者、オーストラリアやアメリカでの鉱山・鉄道建設の労働者の需要があった。

黒人奴隷廃止を受けて黒人奴隷労働者に代わる安価な労働力の需要があった。 イギリス領では華僑のみならず印僑も含まれてた。

・産業革命がもたらした蒸気船の定期周航が労働者の移動を可能にした。

19世紀は移民の時代という世界的風潮があった。

4 南北戦争(1861~1865)の歴史的意義

①アメリカの一体化およびパクス=ブリタニカへの対抗

アメリカの政治的・経済的統一。南北戦争後、アメリカの政治・経済的統一は「パクス=ブリタニカ」を誇るイギリスへの対抗として読み取られる。

 *「パクス=ブリタニカ」を誇るイギリスへの対抗の具体例(=以下の歴史事象を「対抗策」としてみる)

  ♯ロシアの農奴解放令(1861)。

  ♯ビスマルクによるベルリン会議主催(1878)。

  ♯トルコにおけるミドハト憲法(1876)。

  ♯インドにおけるインド大反乱(シパーヒーの乱 1857~1859)。

  ♯中国における洋務運動(1860年代)。

  ♯日本における日米修好通商条約(1858)および江華島事件(1875)。

②黒人奴隷の解放・資本主義の確立

・黒人奴隷制度の廃止→自作農創設・西部開拓の発展→大陸横断鉄道開通(1869)・国内市場の拡大→産業革命→資本主義の確立。

③人種差別の存続

黒人奴隷の解放は宣言(1863)されたが、黒人に対する人種差別はキング牧師指導のワシントン大行進を経て公民権法(1964)が成立した。公民権法で人種差別が法的に廃止された。

4 イギリスの帝国主義或いはパクス=ブリタニカの盛衰

①自由貿易

・19世紀前半イギリスは世界の工場として製品輸出を行って各地との自由貿易を活発化させた。自由貿易といってもイギリス経済が圧倒的に優位であったので、自由貿易はイギリスの経済的支配を意味した。

②植民地形成の展開

・インド大反乱(セポイの乱 1857~1859)を鎮圧してインドを、アラービー=パシャの反乱(1882)を鎮圧してエジプトを、南ア戦争(1899~1902)を経て南アフリカを支配下に置いた。3C政策を展開した。

③ファショダ事件(1898)

・ファショダ事件までは英仏は対立していたが、ファショダ事件以降、英仏はかえって接近した。1904年英仏協商が成立し、イギリスはフランスと提携してドイツと対立した。モロッコ事件(1905,1911)の際、イギリスは英仏協商の誼(よしみ)を以てフランスを支援した。

④大英帝国の凋落

・鉄鋼業部門・金融部門

鉄鋼業部門において、イギリスは1890年にアメリカに、1913年にドイツにそれぞれ追い越された。金融部門はアメリカに第二次世界大戦後追い越された。

・20世紀になると米独の経済的成長の中で英は衰退期に向かった。

日英同盟(1902)で光栄ある孤立を放棄、三国協商の提携、戦間期にはインドのガンジーに譲歩、ナチスの台頭に対して宥和政策で対応した。

・戦後はマーシャル=プランによってアメリカの援助を受け、エジプトのスエズ運河国有化宣言に対する出兵(第二次中東戦争)も米ソの反対で撤退した。

・第ー次世界大戦を機にパクス=ブリタニカは衰退に向かった。

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