幕末ロマン~ペリー公園(横須賀市久里浜)~

ペリー来航記念碑(神奈川県横須賀市久里浜のペリー公園)

幕末の海浜、“夏草や 兵どもが 夢のあと”、また喧騒が聞こえてくる !!  

今は昔、されど昔は今、「歴史から学ぶこと」ということを学ぶ 時が来た!!

フランス革命はブルボン朝の専制支配を終焉させ民主主義を播種させ、国民に自国意識を陶冶し、自国意識はナショナリズムを醸成し、ナショナリズムはナポレオン戦争・両大戦を導出させた。その反省は国連の設立やEUの結成をもたらした。しかし、グローバリズムとは裏腹に世界は米中新冷戦・民主主義対専制主義という新たな国際関係の渦にあるようだ。

1 開国~開国前夜の情況~ 

①別段報告書(1842年以降 家慶期)

・アヘン戦争(1840~1842)で清がイギリスに敗北したことは幕府に列強の軍事的脅威を知らしめた。ゆえに幕府は天保の薪水給与令(1842)を発令し、またいっぽうにおいて海外情報を収集するため、オランダにそれまでの「オランダ風説書」に加えて「別段報告書」を提出させた。

②オランダ国王の開国勧告(1844 家慶期)

・オランダ国王ウィレム2世は幕府にアヘン戦争の二の舞にならないように日本も開国をすべきであることを勧告した。

 幕府はこれを拒否した。

③フランス船・イギリス船の琉球来航(1844・1845 家慶期)

・1844年にフランス船が、1845年にイギリス船が琉球に来航し開国や通商を求めてきた。

ペリー来航記念碑(神奈川県横須賀市久里浜のペリー公園)
金子堅太郎による植樹松の記念碑

2 開国~アメリカの開国要求および開国~

①アメリカの日本への開国要求の背景 *広義にはアメリカの太平洋進出戦略。

アメリカは産業革命の進展やカリフォルニアで金鉱発見(1848)に伴うアメリカ西部の急速な発展を背景に対中国貿易に力を入れていた。またこの頃北太平洋の捕鯨が盛んであった。鯨油はアメリカ南部の綿花栽培における夜業用灯明の燃料に必要であった。対中国貿易や捕鯨の活発化を背景に、アメリカは太平洋の航行船舶や捕鯨船の寄港地として日本を必要とした。また、ウォーレンシュタインの世界システム論に従えば、大西洋制海権を取得していたイギリスに対して、太平洋制海権を目指したアメリカの対英戦略というとらえ方もあるとされる。

②ビッドル来航(1846 家慶期)

・アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し通商を求めた。幕府は拒否した。

③ペリー来航(1853.7.8~7.16(西暦) 老中阿部正弘・家慶期→家定期)

・1853年アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーがサスケハナ号以下4隻の蒸気船の軍艦いわゆる「黒船」を率いて浦賀に来航し久里浜に上陸した。ペリーはアメリカ第13代大統領フィルモアの国書を幕府に提出して開国を要求した。幕府は前年オランダ商館長からの情報も得ていたこともあってペリーの強い要求を拒絶できず大統領の国書は受領した。そして開国に関する回答は翌年するということでペリーを去らせた。国書には貿易・食糧や燃料の補給等に関して記されていた。尚、浦賀来航は浦賀が将軍の居所江戸に近接という理由である。

・ペリー来航時、将軍家慶は死の床にあり、ペリー出港後、家慶は死去した。

・ペリーは国書を受理させる目的を果たしたので滞在はわずか8日間であった。

 これに対して諸大名の中では開国か鎖国かの意見が二分された。幕府にはこれを収拾する力はなかった

・松代藩の家臣佐久間象山はかねてから横浜が開港地として適していると述べ開国論を唱えていた。佐久間象山の門下吉田松陰は停泊中のアメリカ船に乗船して渡米を試みたがアメリカ側の拒絶にあって失敗に終わった。

・戦争勃発のうわさは物資の買いだめを呼び米価高騰を引き起こした

 *黒船:秀吉の頃の南蛮船も黒船と呼ばれた。ただしペリーの「黒船」は列強資本主義の圧力の象徴ととらえられた。

 *黒船来航を風刺した狂歌

   “泰平の 眠りを覚ます蒸気船 たった四杯で 夜も眠れず”  *蒸気船をお茶の上喜撰にかけている。

   *ゴロー(ウ)ニンは「日本幽囚記」、ペリーは「日本遠征記」、ハリスは「日本滞在記」。

ペリー来航の外圧に驚愕した世相を示す幕末の狂歌(神奈川県横須賀市久里浜のペリー公園)

④ペリー再来航(1854.2.13 家定期)

・1854年ペリーはポーハタン号・サスケハナ号など軍艦7隻を率いて江戸湾の金沢小柴沖に再来航した。幕府は江戸に小柴が近いのでペリー一行を遠ざけるつもりで浦賀へ移動することを伝えた。しかしペリーはそれに応じないばかりか逆に神奈川沖さらに羽田沖まで進行した。幕府の交渉の結果ペリー一行は結局現在の横浜村あたりに引き返した。また、江戸湾の測量をするなど軍事的圧力をかけつつ開国を強硬に迫った

・1854年2月25日、アダムズ参謀長以下30名のアメリカ人が、交渉地として横浜村の駒形(現在の横浜市中区県庁付近)に上陸した。その場所は横浜に外国人が上陸した最初の地であった。

・久里浜にあった応接所の設備を解体し横浜村駒形に移動した。アメリカ人はここを条約館と呼んだ。

・幕府は時間稼ぎに留意し態度を不明瞭にする「ぶらかし」外交でなんとかこの難問を切り抜け鎖国を維持しようとしたが、ペリーの強硬な開国要求に幕府はついに屈して日米和親条約を結び開国に踏み切った。

⑤日米和親条約(1854.3.31 神奈川条約 老中阿部正弘・家定期)

・日米和親条約締結(1854.3.31 神奈川条約)

 神奈川宿近隣の横浜村でペリーと林(はやしあきら 昌平坂学問所の大学頭)が締結。1639年に始まった「鎖国」はこの条約を以って終結した。

・箱館・下田2港(のち長崎)の開港。

・アメリカ船への水・食糧・石炭・薪の補給。遭難民の救助。

・アメリカへの片務的最恵国待遇の供与。永世不朽の和親。

 *北海道の箱館と伊豆半島の下田を開港地に選んだ理由は江戸から遠いという点であった。

・日英和親条約(1854)・日露和親条約(1854)・日蘭和親条約(1855)締結。 日米和親条約に続いて日本は英・露・蘭とも同様の条約を締結した。

ペリー公園案内表示板(神奈川県横須賀市久里浜のフェリー乗り場付近)

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