オロロンライン・宗谷岬
①札幌→深川:道央自動車道
②深川→留萌:一般道
③留萌→稚内→宗谷岬:北日本海沿岸の国道232号線(オロロンライン)
*苫前・羽幌・遠別・天塩を経由し日本海をひたすら北上、約400km(車で6~7時間)
羽幌町沖の天売島に生息する天然記念物のオロロン鳥に因んで、北日本海を留萌から稚内に至るルートは「オロロンライン」と呼ばれている。北海道の旅の目的が「自然の中にいること」であるとすれば、北日本海の沿岸をギリギリに走るオロロンラインに乗っていること自体がすでに旅そのものである。
旅による日常からの脱出という発想、それを覆していつの間にか旅が別な日常や新鮮な世界を与えてくれる。特に本州の人間にとって北海道旅行にはいつもそうでいつもそういう広がりがある。信号が車を止めることもない、矢羽標識が通過する、右手側は時に丘陵、時に風力発電の風車、時に雄大な天塩川、左手側は延々と日本海、静寂な風が車窓を横切る、静寂な時空を呼ぶ、静寂な時空が連続する。。。
天塩川河口の鏡沼海浜公園には北海道探検家で北海道の命名者たる松浦武四郎の像が遠方を眺めている。松浦武四郎は幕末から明治にかけて北海道各地にその足跡を残しそして歴史的業績を刻んだ人物である。天塩川は地理的には信濃川やロシアのレナ川と並んで融雪洪水の河川と分類されるそうである。天塩川には寂寥の感が漂う。風車群は風力発電の町苫前。。。第1次石油危機は世界に代替エネルギーのことを想起させた。しかし、人間の生命の安寧の傍らにはいつも資本主義の利権が寄り添う。たとえば「温暖化は新しいビジネス」という発想である。
札幌・深川・留萌そして日本海を北上。車で6~7時間。北緯45度31分22秒。日本の最北端。宗谷岬。宗谷海峡を隔てて沖にはサハリン(樺太)。沿岸や最端は「変化という魅力」を発する。冒険心の要因。”とうとう最端に来た!”とは”とうとう究極の変化を冒険した!”ということかもしれない。
サハリンと宗谷岬、先の戦争の歴史を思い出さざるを得ない。札幌の旧北海道庁(通称「赤レンガ」)に展示されていたサハリンでの当時の人々の生活を撮影したセピア色の写真も浮かんでくる。宗谷岬には北極星をデザインした三角形のモニュメントがある。その傍らで江戸幕末に樺太探検に成功した間宮林蔵の像が樺太を臨んでいる。通商を求めロシア船が相次いで北海道沿岸に接近した幕末の歴史のロマン。早くも18世紀田沼時代に道東沿岸の厚岸にロシア船がやってきた。そのあとラクスマンの使節が根室に。。。幕府は動揺していた。。。ついつい未解決の「北方領土」のことが浮かぶ。宗谷岬の丘陵には旧海軍の望楼や大韓航空機墜落の碑が建てられている。宗谷丘陵はかつて氷河が形成した土壌である。オロロンライン・稚内・宗谷岬には歴史や地理の資料が満載されている。ピンクのアルメリアの花が最北の地の涼風になびいていた。
♪宗谷岬 作詞:吉田弘 作曲:船村徹 うた:千葉紘子/ダ・カーポ♪
1
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
2
吹雪が晴れて しばれがゆるみ
渚の貝も 眠りが覚めた
人の心の 扉を開き
海鳴りひびく 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
3
倖せもとめ さいはての地に
それぞれ人は 明日を祈る
人の心の 扉を開き
波もピリカの 子守のように
思い出残る 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
日本最北端で味わう「ほたてラーメン」。店の窓からラーメンを食べながら宗谷海峡を望む。この店の20メートルくらい先には旧日本海軍の望楼が僕らと同様に宗谷海峡を望んでいる。旧日本海軍の望楼は日露戦争直前の1902年建造され、軍艦のデッキをデザインしたものといわれる。真夏でも17度の外気から暖を求めて食べる「ほたてラーメン」。この味はいっそうの「平和」のありがたさとともにジーンと染み入る。
宗谷岬の背後の宗谷丘陵は「周氷河地形」と呼ばれる。地学的には凹凸差の低い皿状地(デレ)に分類される。地中の水分が凍結と融解を繰り返す凍結融解作用により形成された寒冷地地形である。また、森林限界が途切れる地域に分布し2万年前ほどに形成されたそうだ。宗谷丘陵では宗谷黒和牛の放牧や風力発電のウィンドファーム群やホタテの貝殻からなる2kmの白い道路が見どころだ。