流氷・納沙布岬
無謀な戦争の結末。傲慢とファナティシズム。
『奉天にいたのは板垣征四郎、石原莞爾...九月十六日夜、板垣以下メンバーがもう一度集まって、酒を飲みながら...十七日午前三時になって、板垣が「こうなったら運を天にまかせて割り箸を立てて決めようじゃないか」...ともかく右へ転んだら中止、左に転んだら決行、といことでやってみたら、右へ転んだらしいんです。ということは中止ですね。...やはりここまで来たらやってしまおうじゃないか、と今田新太郎や三谷清ら若い強硬派の声が高く、再び「やるか」という空気になったようです。』(半藤一利著「昭和史」~満州事変(1931)決行時の記事~)
*北海道旅行における五原則*
①時間を気にしない。
②寄り道をする。
③歴史を追体験し地理を実感する。
④冷涼清澄な空気を味わう。
⑤海の幸・山の幸を満喫する。
まだ雪の残る3月下旬、襟裳岬から太平洋岸沿いの黄金道路を北上、釧路・厚岸を経由してさらに東へ、北海道の東端、根室半島の先端納沙布岬(のさっぷみさき)。早春の夕風。夕日に染まった透明な赤い流氷。美しさと厳しさ。このルートは、北海道旅行5原則を満たしている。
黄金道路は国道336号線中えりも町から広尾町までの約30kmの沿岸道路のことで、建設に莫大な費用がかかったことにこの名称の由来がある。この道路の建設に「タコ」と呼ばれた労務者が厳しい制裁を伴った残酷な労働を強いられた。黄金道路の建設にあたって「タコ」の犠牲者は21人とされるが、実際のところは不明であるようだ。北海道の峠道などの建設に網走刑務所の囚人が酷使されたという歴史も思い浮かぶ。北海道の旅には弱者の歴史が並存する。
納沙布岬には北方四島をデザインした朱色の大きなアーチ型のモニュメント「四島の架け橋」が国後島を眺めるように建っている。「四島の架け橋」のアーチの内側に「島を還せ」の碑も建っている。納沙布岬に来るといやでも北方領土問題に対面する。花咲蟹・秋刀魚・鱈の水揚げで活気あふれる根室花咲漁港とは裏腹に根室には北方領土が対峙する。この点においてまだ「戦争」は終わっていない。
日露国境線および北方領土をめぐる歴史
①日露和親条約(1854 正式には日露通商条約)
・択捉島と得撫(ウルップ)島間を日露国境にする。樺太は日露雑居地にする。
②樺太千島交換条約(1875)
・千島列島は日本の領土、樺太はロシアの領土と定めた。
③ポーツマス条約(1905)および樺太国境画定会議(1905)
・日露戦争のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太は日本の領土と定めた。
④ヤルタ協定(1945)
・北緯50以南の樺太および全千島列島をソ連(現在ロシア連邦)に編入を決定。
日本は歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島は日本固有の領土であると主張。
現在に至る北方領土問題が生じた。
⑤日ソ共同宣言(1956 鳩山=ブルガーニン会談)
・首相鳩山一郎とソ連首相ブルガーニンとの間の会談で日ソは戦争状態を終結した。
この会談でソ連側は歯舞諸島・色丹島の日本への返還を約した。
しかし現在でもその約束は履行されていない!!
⑥橋本・エリツィン会談(1997)
・日露両国は2000年までに平和条約を締結することを確認、しかし実行されていない。